だんじり考(上)
祭りは、多かれ少なかれ、わたしたちを取り巻く社会の縮図を単純化した形で私たちの目の前に現出させる構造を有している。これを目の当たりにすることは、ときに人の気持ちを絶望へと追いやり、ときには死へと向かわせる作用をもちうる。では、あの勇壮さで知られる祭り「だんじり」が表象する「社会の縮図」とは一体何か。
薄暗い提灯の灯かりに照らされて、人びとが円弧を描きながら、いつ終わるとも知れずおどりつづける。おどりの輪には、始点もなければ終点もない。
知っている顔が輪のなかでおどっている。前に進み、後ろに戻りを繰り返しながら暗闇の中から現われたその顔は、たゆたうような動きをくりかえしながら、また暗闇へと消えていく。
この盆踊りという祭りは、ほかのどんな仏教行事よりも、無常観や、輪廻転生の世界観をみごとに表現している。
また、長良川の鵜飼いを、かの松尾芭蕉は「おもしろうて やがてかなしき 鵜舟かな」と詠んだ。芭蕉は、鵜飼に操られ、魚をくちばしで捕らえたと思えばすぐにそれを吐き出させられるこっけいな鵜のすがたに、人間社会の一縮図とでもいうべきもの悲しさを見ている。
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祭りというものは、多かれ少なかれ、人間の一生やわたしたちの生きている社会の一場面、あるいは世界すべての縮図ともいえる構造を内部に有しているとおもう。
しかもこれらの構造は、祭りや踊りの動作として極端に単純化されたかたちで表象される。すると人は、日常生活に追われるうちにすっかり忘れてしまっている、じぶんの生きている世界の構図を俯瞰的な視点で目の当たりにすることになる。蟻の視点ではなく、鳥の視点だといってもよい。
きっと、祭りというものがもち合わせるもの悲しさというのは、この鳥瞰的な視点によって、たとえ模式的なかたちであれ、自分の生きている世界の縮図、あるいは自分の人生の構造について目の当たりにしてしまった一種の不幸がかもしだすのではないかとおもう。
自分の住んでいる世界や人生のすべてがわかってしまうということは、(たとえそれがわかったつもりにすぎなかったとしても)人の気持ちを絶望へと追いやり、ときには死へと向かわせる作用をもちうるからだ。
* * *
さて、9月ごろのことだったか。堺に住む友人K氏から、冗談半分で「10月にだんじりあんねんけど来おへん?」と誘われた。けっきょくいつの間にか祭りは終わっていたのだが、ご存じの通り、だんじりはたいへん勇壮ですさまじい祭りだ。
(続く)
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